『デキシーランド ジャズ物語』
ジャズの誕生の歴史
4つの大きな出来事
話をN.Oに戻しましょう。南北戦争が終わり「奴隷解放」となったものの、いざその日から異境の地で己の力で生きて行かねばならなくなった黒人の生活は決して楽で無く過酷な生活が続きます。
そんな彼らの生活の中で喜びを得る手段の一つが彼らの音楽でしたがそおn音楽自体に様々な変革が起こり始めます。その数有る理由の中から代表的な物として、次の4つの大きな出来事が挙げられます。
- 一つは奴隷解放そのもので、多くの黒人はその日の内に今までに拘束されていたプランテーション(綿花や砂糖黍畑)に「もう、こんな所には2度とこないぞ!」と唾を吐き捨てて去って行ったのですがその喜びも束の間、その日からは己自身で生活をしていかねばならないという白人の身勝手で異国の地に強制的に連れてこられた黒人達にとってこれ又苛酷極まりない新たな歴史のスタートだったのです。
- 二つ目は彼らが必死に生活の糧を模索中に、それ迄触る事や手にする事が出来なかった憧れの洋楽器が戦争に敗れた南軍軍楽隊によって巷に大量に中古品として出回った事で、それを手にし少し上達すると普段は全く相手にしてくれない白人から「面白い、もっとやって見ろ!」とか「今度パレードがあるから来い」とか、一切人間扱いされなかった彼等にどういう訳か楽器を奏すると白人が見向きチップをくれるので、元来陽気で音楽好きな彼等は音楽教育等一切無いのにそこに素晴らしい才能を発揮していくのです。
- 三つ目は当時の社会そのもので、巷にはスーザーの行進曲やフォスターメロディー始めミンストレルショー等々の音楽が定着し世の中全般が大衆音楽を多く必要とし数多くの楽団が求められていた時代、しかし音楽が必要と言っても南部のこの地の暑さは異常で、更に葬式や埋葬時の演奏、酒場の夜通し演奏、街頭での呼び込み演奏、冠婚葬祭のパレード演奏等は、白人にはとても好ましい条件では無かったのですが、夜通しだろうが猛暑炎天下でのパレードだろうがどんな苛酷な条件下でも奴隷経験の黒人達には充分活動出来た事です。こうして黒人音楽の演奏機会が増すに連れこの音楽の虜になる白人達も増えていったのです。
- 四つ目は19世紀末1897年に突如N.Oの町に「紅灯街」なる物が誕生します。この町の第38街区「ベイズン・ストリート/BASIN STREET」から北の「ロバートソン/ストリートROBERTSON STREET」までの一角を当時の市議会がここを赤線歓楽街と指定した為N.Oの町はその日を境に大いに栄える事になります。この立案者、ストーリーの名をとってこの地区は「ストーリー・ビルSTORRYVILLE」と呼ばれそれ迄殆ど職の無かった多くの黒人達の仕事場ができ、同時に多くの演奏機会が産まれ、これが後のジャズと呼ばれる音楽の原型作りに大きく貢献します。
この時代に一人の際だったハンサムなクレオール人のコルネット吹きが登場します。