ジャズの誕生の歴史

デキシーランド(地名)の呼び名の由来(つづき)

 これによりアメリカの「北」と「南」と言う定義が人々に徐々に浸透していきます。この境界線を測量した一人、女性のジェアーミン・ディクソンに北部の人々は親しみを抱き未だ見ぬ南部、境界線の南を「ディクソンランド⇒デキシーランド」と呼ぶ様になり南部に特別な親しみ憧れを抱くようになります。

それは「デキシーランド」が書かれた少し前の1750年に先住アメリカ・インディアンが白人を見た時に白人を意味する「ドゥードゥル」という言葉をもじった当時すでにヨーロッパで人気のあった「ヤンキー ドゥードゥル」(邦題:アルプス一万尺)が最初のポピュラーソングだと言われています。

ミンストレル ショーの功績

18世紀最後の年1799年に北部のボストンでこの地の人々に特に関心の有った黒人を題材にし、黒人の生活内容を面白可笑しく軽快な音楽に乗せて演ずる「ミンストレル ショー」が娯楽の少なかった社会で爆発的ヒットとなります。これは白人の役者が顔や体を真っ黒にして黒人に扮して黒人生活を風刺して笑いをとる物で、ラジオや映画テレビ等全く無い世の中でこの軽快で楽しいミンストレル ショーや軽喜劇(ヴォードビル)はその後100年もの長い間アメリカの大衆娯楽の花となっていました。

このようなショーは常に陽気で明るい目新しい曲を必要とした為この時代は沢山の作曲者が生まれました。 「懐かしのバージニア/CARRY ME BACK TO OLD VIRGINIA」を作曲したジェィムス・ブラントはこの時代の花形ミンストレル作曲家として名を馳せていました。しかしここで大きな功績を残したのが皆様ご存じの「スティーブン・コリンズ・フォスター」で彼の作曲した殆どの曲が黒人に関係しているのはその為で、彼の生活費はミンストレル・メロディーを書くことで成り立っていたのです。フォスターは一般白人の黒人を弄んで(もてあそんで)収入の糧にする考え方と異なり、黒人奴隷に対して温かい思いやりの心を持ち、世間で見ている姿とは別に本当は過酷な労働を強いられている黒人の姿をありのままに描き、「オールドブラック・ジョー」「おお!スザンナ」「主人は冷たき土の中」「ケンタッキーの我が家」「金髪のジェニー」「老犬トレイ」「バンジョーひいて」「故郷の人々」「夢見る人」他数多くの美しいメロディーを世に残しました。


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