ジャズの誕生の歴史

ニューオーリンズの歴史(1700年代〜1800年代)黒人の音楽

その時代のN.Oの町ではスペインからの音楽やそのスペイン音楽の源のジプシー音楽、それにカドリールやワルツと言ったフランスからの音楽が広まっていましたが、この頃は黒人たちに“黒人音楽の禁止と集会の禁止”と言う苛酷な弾圧が為されていましたが、彼らは全ての音楽を彼らなりに変えて楽しんでいたのです。教育等は一切受けられない、教会に入ることすら許されない、巷の洋楽器を入手する事も触る事すらも出来ない、無論譜面等は読めない・・・。こんな彼らが出来る音楽表現はと言うと手製の打楽器を始めとした質素な楽器を駆使し、己の体を動かしエネルギーを強烈に発散させる(シミー/SIMMY)ダンス、体の底から発する呻き声(シャウト/SHOUT)、叫び(ブルース/BLUES)等の限られた物でした。

「音楽」とは音を楽しむと書きますがこの黒人奴隷達に課せられた苛酷な条件下ではとても音楽を楽しむ等の余裕やゆとり等は一切無かった筈ですが事実は全く逆で、彼らのバイタリティーはそんな事でくじける様な甘っちょろい物では無かったのです。

日々苛酷な綿花畑等での重労働の際にはプランテーション・ソング(農園の歌)やワーク・ソング(労働歌)、ボート・ソング(港湾荷役労働の際の歌)、を唄い、一日の苛酷な労働を終えただ寝るだけの家路の道で唄うロンギング・ソング(憧れの歌)等々あらゆる形で黒人の音楽は成長して行ったのです。綿花畑で働く女性奴隷を集めて開かれた“美人コンテスト”は彼らの楽しみの一つで、その商品に農場主が用意してくれたのが黒人にとって憧れの甘いケーキだったのでそこから生まれた独特な腰の振り方をする「ケークウォーク・ダンス/CAKE WALK DANCE」(後にストラット/STRUTと呼ばれる)が流行しそれに相応 (ふさわ) しいリズムとメロディーが生まれ、これが後のジャズの母体となるのです。

入る事すら許されない教会から流れてくる讃美歌のメロディーを自分たちの歌にし聖書の中の物語を基調とした「ニグロ・スピリチュアル/NIGRO SPIRITUAL」を産み出します。

この「黒人霊歌」は南北戦争後の1870〜80年代に大ブームとなり一世を風靡するのです。

デキシーランド(地名)の呼び名の由来

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