VOLUME 2 ニューオーリンズよもやま話

ルイ・アームストロングとN.O

マイナーレーベルの「ジャネット/GENNET」や「オーケー/OKEH」社の名を一躍世に知らせ占めたのはB(ベッシー)・スミスやM(マミー)・スミス他の女性ブルース歌手達に加えて若き日のあの天才コルネット吹き(この時代はトランペットが世に出ていない)L・アームストロングでした。

ルイの最初の録音は1923年4月インディアナ州リッチモンドのジェネット社でK・オリヴァーのバンドで「ジャスト・ゴーン/JUST GONE」「キャナル・ストリート・ブルース/CANAL ST' BLUES」他数曲で、その時のメンバーはK・オリヴァーとL・アームストロングのコルネット(Cor)、O・デュトレー(Tb)、J・ドッズ(Cl)、L・ハーディン(P)、B・ジョンスン(Bj)、B・ドッズ(Dr)の7人編成。

2ヶ月後の6月に(Bj)がB・スコットに変わった同じメンバーでオーケー社からも「スネーク・ラグ/SNAKE RAG」「ハイソサェティー・ラグ/HIGH SOCIETY RAG」他数曲が録音され、黒人ファンに大きな話題を呼び、これがビクターから後に発売される黒人向けの廉価版レーベル「レースレコード」発売のきっかけとなります。

ルイは1923年から1925年の3年間に数多くのレコーディングをし、1925年11月彼が初めてリーダーとなる歴史的なバンド「ホット・5(ファイブ)/HOT 5」の演奏をオーケーからレリースし、これ又大反響を呼び起こします。

L・アームストロング(Cor)、K・オーリー(Tb)、J・ドッズ(Cl)、ルイと新婚早々のL(リル)・アームストロング(P)それにJ・サンサンシール(Bj)で、この「HOT・5」(2年後には"HOT・7"を結成)の演奏は「デキシーランドジャズ」の原典とさえ称される程です。

ところで、ルイは間違いなくN.Oの貧民層の黒人達が多く住むパーディドゥ通り(PERDO STREET)で生まれ少年時代のお祭り最中に浮かれて羽目を外しピストルをブッ放したとして少年院送り(これは黒人差別社会では良くある話)、そこでコルネットを習得し退院直後あこがれのK・オリヴァーの指導を受け、蒸気船の上で本格的なクレオールジャズを体得し後のN.Oと「ジャズ」そのものの象徴となる人です。

彼のスタイルの第一完成期となる「ホット・5/ホット・7」で一躍名を馳せた1928年頃までは確かにクレオールジャズの影響を色濃く反映してますがその後の彼のスタイルはこのしがらみから完全に解き放たれ、彼独自のジャズの世界へ大きく突き進んでいくのが良く解ります。

N.Oから傑出した世界の天才「ルイ」がジャズの歴史に残した功績は実に多大なもので、当然N.Oに行けば沢山の記念物に会える筈!ときたいし胸をはずませて行きますと、確かにF・クォーター入口に位置する「ベイズン・ストリート/BASIN STREET」の傍らに残る一昔前は「コンゴー広場」として知られていた有名な広い一角が「ルイ・アームストロング記念公園」となって人々に知られていますが彼がクレオール人でなかったので偉大な彼の足跡を市の中心のF・クォーターで見出そうとすると意外とそれが難しいのです。


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