VOLUME 2 ニューオーリンズよもやま話

デキシーランド ジャズの名付け親トム・ブラウン

ここに一つの面白い話が残っています。N.Oでクレオール・ジャズを学び取り比較的に早い時期にシカゴにきた白人トロンボーン奏者トム・ブラウンはライブハウス「ラムカフェ」で演奏していた時にシカゴ音楽協会(MUSICIANS UNION)からしつこい協会加盟勧誘を受けているのですが、彼はガンとしてそれに応じない。

遂にユニオン側はキレてしまい「お前らのやってる訳の解らない音楽はとてもまともな音楽とは呼べない!お前達のやっている音楽は淫売屋の音楽”ジャズ”だ!」(これは当時シカゴの売春宿で女性によって使われていたセックスを表す卑語)と罵り、これでこのグループを抹殺できると思い怒って店を後にします。所がこれをヒントに「ラムカフェ」の経営者はその日から店の看板に堂々と「T・ブラウン・デキシーランド”ジャズ”バンド」と書いたらこれが大当たり!連日満員大盛況!ここから「ジャズ」という呼び名が一躍巷に知られる様になります。

この話の続きですが結局彼はその後もユニオンの会費は収めなかったそうです。

この日からそれ迄「ラグタイム/RAGTIME」「ブルース/BLUES」「JASS」(ジャズではない)等と呼ばれていたこの種の音楽を人々は「ジャズ/JAZZ」と呼ぶ様になったと言われています。更に「デキシーランド ジャズ」という呼び方もこのバンドが全員白人の編成で、それ迄の「クレオール/ジャズ」と一味も二味も違う白人感覚の陽気で明るく規律やしきたりを余り重視しない自由な演奏スタイルだったので、K・オリヴァーやK。オーリー達が演奏するクレオールや二グロの演奏するジャズを古典的ジャズ⇒トラッド或いはN.Oジャズとし、T・ブラウン等白人の陽気さと華やかさを”売り”とするジャズを「デキシーランド ジャズ」と人々は何となく分けて使う様になりました。

勿論こんな分類方法では「N.Oジャズはそんなに暗いの?」等の誤解を生んで正しい分類方法とはいえません。しかしこのT・ブラウンの従来のしきたりや慣習を型破りに破る演奏スタイルは白人若者から絶大な支持を得てジャズが社会に浸透し1917年の「O・D・J・B」の歴史的録音となり「ジャズ時代/JAZZ

AGE」の幕が切って落とされるのです。

黒人向けレコードの登場

ビクターの大ヒットで世にデキシーブームが巻き起こると黒人達は白人ジャズに鼻持ちならぬ感覚を抱き必然的に彼等の心に直結する黒人のレコーディングを開始します。

その代表格は「ジェネット/GENNETT」や「オーケー/OKEH」社で、これが黒人社会の熱狂的支持を受け、その後の「ローリング20'TH」の第一期ジャズ黄金期形成に大きく貢献します。黒人達は白人の「デキシーランドジャズ」と違い彼等に呼応する黒人ジャズを一線を画し「N.Oジャズ」と言う呼び名を使っていたようです。


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